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第二回|儲けよりもまず、楽しいってのがにじみ出てないと、お客さんのワクワクが返ってこない。」と酒屋の店主が語る。

コラム:新しいことをはじめるのだから、今までのことにとらわれず、
全く新しいやり方ではじめなきゃダメだ。

text by 上原 敏

 アジフライさんやスルメさん、塩茹で落花生さん。湯入れたん忘れてのびてしまった焼きそばUFOさん。
 3杯のサッポロ黒生と田村の樽酒に手をひかれ、DNAがぐるぐる回転してバウンスし始め、何だかワクワクが、ふつふつと五臓六腑から湧いて出て、隣の兄さんもその又隣の姉さんも、皆ひとつ屋根の下、今日も何とかやってきてここに集うているのだなあ、とさっきまでの赤の他人様がかけがえのない同胞のように感じられるともういけない。やあやあと声をかけ、そうそうと相槌をうち、おまえがアホやからな、と説教をする。すぐに惚れすぐに泣く。

 新創刊のリトルマガジン誌面に登場する人々をご紹介するコラムの第二回。今回は酒屋の話です。いきなり取材先の店頭で酔っぱげてすいません。

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 世の中にはどうしてこんなにたくさんの酒があるのだろう。

 空気中に潜むカビたちが、発酵という生命の営みを繰り返す中で「排泄」したアルコールを、人は長く愛し憎んできた。身体に塗れば毒を消し、口中に注げば憂さを消す。「生命の水」と呼ばれるほど貴く、「キチガイ水」と蔑まれるほど俗っぽい。「酒の力を借りて」とよく言うけれど、日常を破る力を与える酒は、人を聖者にも愚者にもする。酒の前では、人は平等ですっかり裸になってしまう。
 吉本隆明が太宰治のもとへ彼の戯曲の上演許可を取りにいったとき、馴染みのうなぎ屋で酒を傾けている太宰に吉本はこう言ったそうだ。

「太宰さん、気持ちは、重たくないんですか」
「俺は今でも重たいさ」

 吉本はこれを聞いて、重たいけどわざと軽くしているんだ、軽い調子で話しているのは本当じゃない。そう受け取った。初対面の吉本に太宰がかけた言葉とその親密な佇まいは、終生彼の記憶に刻まれた。
 酒が傍らにあるとき、案外大事なやりとりをすることが多い。酒があるのに遠慮はいらない。ただ酒があり、おまえがいる。他事はどうでも良くなる。だから、酒を傾ける場所は、まず酒を妨げず人を許すところが良い。
 角打ち、酒屋の店先に備え付けられた、ちょっとしたカウンターで店の酒を呑ませる立ち飲みコーナーは、まさにそういう場所のひとつだ。
最近、「立ち飲み」と称する居酒屋が名古屋でも増えてきたが、昔ながらの角打ちは多く残ってはいない。かつてあった店もコンビニに姿を変えたり廃業したりで、営業している店は10もないのではないか。
 大曽根の駅前にある、みのや北村酒店は、生き残っている店、いや、生き残っているというよりも現役で生きている店だ。

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 この店の存在に気づいたのは、同じく大曽根にある金虎酒造で平成23年(2011)9月に開催された音楽フェスティバル、金虎音楽祭を通じてだった。名古屋市内には酒造メーカーが5社あるが、会場となった金虎酒造は江戸時代より続く酒蔵で、趣きある木造の作業場に立ち並ぶ醸造タンクを傍らに繰り広げられた宴は、数ある音楽イベントの中でも異色かつ印象深いものだった。その後、金虎音楽祭に出演したミュージシャンの多くが、実は「みのや北村酒店」と呼ばれる酒屋の店先で演奏していて、そもそも音楽祭の主催が、酒店の3代目店主と仲間たちによる手づくりのイベントだったことを知った。
 翌年の音楽祭で店主北村彰彦さんにお会いし、取材の約束をとりつけて当の北村酒店に足を運んで驚いた。

「あの店か」

 記憶が一気に甦ってきた。平成6年(1994)三重県津市から引越し、初めて名古屋に居を定めた場所が東区砂田橋。当時の地下鉄名城線は環状化前だったため、最寄りの駅は、大曽根だった。通勤の途上で必ず通りがかる駅の東側のバス停前に、少しさびれたコンビニのような商店があった。酒の自販機が店横にずらりと並び、呑んだくれる親父たちがときにたむろし、地元の人間以外は気軽に立ち寄りにくい雰囲気を醸し出していた。
 あれから10数年が経ち、取材のために久しぶりに大曽根駅周辺を訪れたとき、その店はすっかり変貌していた。店内の雰囲気やひっきりなしに出入りする様々な客たちの姿に当時とは全く違う活気がみなぎっていた。
 店主である北村さんが語るこれまでの店の歴史は、大曽根という街で戦前から三世代にわたって暮らしてきたコミュニティの住人の証言そのものだった。
 大曽根には、かつて、大須、円頓寺と並ぶ名古屋三大アーケードがあった。岐阜、尾張から向かう名古屋の北の玄関口ともいえる大曽根は、交通の要所であり、盛り場のひとつだった。平成に入って、道路拡幅などの都市の再開発が進められ、駅を中心に東西に形成されていた商店街は解体が進んだ。ナゴヤドームが建設され、地下鉄が延伸し、大型商業施設がドームを中心に展開すると、大曽根駅周辺で店を切り盛りしている人々は、苦闘を強いられるようになった。
 交通網の整備や大規模店舗の出店規制の緩和、人口の減少等により、かつて栄えていた商店街が往時の活気を失っていく光景は、日本のいたるところにある。そんな地で店を受け継ぎ、切り盛りし、街とつきあっていくとは、どういうことなのか。

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 北村酒店は、今では珍しいほど多種の煙草を扱い、棚に自然食品を並べ、国内の様々な地酒、地ビールを並べ、立ち飲みコーナーを併設している。一見すると無節操にもみえるこの姿は、北村さんとお客さんとのライブなセッションによって結実しているものだ。
 北村さんは、商店主として店頭を第1に、まず大曽根の地に店があり続けていることを大切にしている。それは、表題に掲げた言葉が示しているように、お店とお客のやりとりが、単にモノのやりとりに留まらないものだと知っているからだ。
 ワンカップや専売公社の塩は、あの味とこの街、この店の記憶が一体になってる常連客にとってはかけがえのないもの。初めて立寄る客にとっては、他ではあまり見かけない自然食品や丁寧に造られた地酒との新鮮な出会いを用意し、そこに気楽なやりとりを添える。道行く人を挑発し楽しませようと、時に活きのいいライブやイベントを店頭で繰り広げる。新たな出会いや偶然の交流は、店主北村さんにとっても客にとっても良き記憶となり、いつしか一見は馴染みとなって、店に、街に新たな彩りを加えていく。

 世代を超えて対話や自然な交流が生まれる場所とはどういう場所なのだろう。そんなことを編集の視点にすると、必ずしも時代は関係がないのだと考えるようになった。現代でも百年前でも、時代をしなやかにやり過ごしながら、社会の本質に迫り、次代につなぐような「開かれた」場所を地道に作ってきた人々がいる。そういう場所と人を記録すること。今、自分がやれることはそんなことしかないよな、と思う。

 おっと。長すぎました。堅苦しい話はこの辺で。
 アルコールが、血管の中を「酔え酔え酔え酔え」と歩いてますんで。
 まだまだ寒い日が続きます。皆さんお身体に気をつけて。何事もほどほどに。
 また次回。よろしゅうお頼み申します。


第一回 コラム   昭和4年2月。山中散生は、モダニズム誌Cine(シネ)を創刊する。(2013.11.08 UP)


 

上原 敏

平日夜間休日限定編集者兼ライター。
京都出身。名古屋に転居後、
2005年〜2010年までフリーマガジンSCHOP(スコップ)を発行。
本を通して街で遊ぶイベント『ブックマークナゴヤ』の実行委員や司会担当として暗躍中。

今、新しいリトルマガジン『ヴュウ』の創刊準備をしています。
鋭意製作中です。

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