やっとかめ文化祭2016:なごやまち歩き
REPORT:
塩付街道とお地蔵様
Report : Makoto Sato [ YATTTOKAME FESTIVAL ]
Text&Edit : Takatoshi Takebe [ THISIS(NOT)MAGAZINE, LIVERARY ]
Photo: Sara Hashimoto [ LIVERARY ]
今回のレポート取材に同行したのは「やっとかめ文化祭」スタッフ・佐藤真さん(左)。ガイドは、塩付街道保存会・荻須昭大さん(右)
前回レポートしたクリス・グレンさんによる名古屋城ガイド、狂言方・野村又三郎さんによるプチ狂言ワークショップ付きのまち歩き(前回記事はコチラ)に比べれば、少々地味なコースではある。しかしながら、「やっとかめ文化祭」が都市の声を拾い上げるものであることを改めて考えさせられる感慨深い体験となった。
そもそも塩付街道とは?
今回巡る道はもともと「塩付街道」と呼ばれていたルート。塩付街道は、江戸時代に盛んに塩田事業が行われていた鳴海潟(現在の緑区)、星崎沿岸(現在の南区)で作られた塩を馬に載せ西三河、東濃、信州へと運んだいわば〈塩の道〉だ。塩を運ぶ馬子(まご/馬をひく職業の人)たちが行き交ったこの道沿いには複数の路傍の石仏地蔵が旅の安全を見守っていたという…。
では、当日のまち歩きの様子を時系列に沿って、レポートしていこう。
街道沿いに今も佇む、お地蔵様たちを巡礼。
まず向かったのは、住宅地の細い道を抜けたところにある接骨院の脇にひっそりと佇む、馬頭観音像。
通常こちらの赤い扉は閉まっているので、おそらく普通は見過ごしてしまうだろう。
ガイドの荻須昭大さんはこの塩付街道に点在するお地蔵さんたちのケアなどを行う団体のひとり。「もともとはその地域に住むご近所さんたちが(地蔵さんの)保護などをしていく文化があったと思いますが、現在ではそれは難しくなってしまった。それどころか、街の区画整理や宅地化などの影響でもともと通り沿いに点在していた地蔵は移動を余儀なくされその居場所を失いかけている。」のだそう。
先程の地点からまっすぐ通りを歩いていくと、こちらも住宅の敷地内の一角に真新しいお堂に収納されたお地蔵さん3体を発見することができる。
左から順に、馬頭観音、川澄地蔵、子安地蔵。川澄地蔵は尾張藩士・川澄平吉が先祖供養のために安置したものだそう。
もともとはこの3体はそれぞれ違う場所に置かれていたという。区画整理の際に行き場を失ったお地蔵さんたちはとある住宅が引き取り、土地の一部にお堂を立てもらい、現在は一箇所に仲良く並んで収められているのだそう。
「行き場を失ったお地蔵様は行政では引き取ってもらうことができず、そうなると民間で誰かが引き取るしかなくなる。」と荻須さん。誰のものでもない路傍の石仏、もちろん現代社会においては彼らの必要性などはないのかもしれないが、追いやられ行き場所を失いかけたその過程を想像すると少し寂しくなる反面、地域住民の中に引き取り手が現れてくれたことに感謝の念すら湧いてくる。
さらにもう少し通りを進むと、大きな病院端の角地にお堂が。ここにも3体のお地蔵さんが並んでいた。
みやみち地蔵。もともと旅人たちの道標のためにこの場所に置かれていたのだそう。別称・道教(みちおしえ)地蔵。
お地蔵さんたちに被せられた頭巾や布類は名も知れぬ誰かが寄贈してくれたものだそう。地域住民たちによって、またお地蔵さんたちを保護する団体の手助けによって、歴史文化の産物とも言えるお地蔵さんたちは守られている現実を知る。
その後、一行は藤成神明社へ。
ガイドの荻須さんは「拝殿ではなく、その奥の本殿の造りや屋根などが重要なポイント。他に鳥居や狛犬、末社などにも注目してほしい。」と言い、本殿の脇へと砂利道を進んでいきます。
「実は、こちらの神社の脇には、9つもの神様が合祀されているんです。」
もともとあった神社や古墳が住環境の変化とともに取り壊されるなどした際に、そこに祀られていた社だけは移転され、この神社の本堂の脇・末社に集められているのだそう。
さらに、手水舎(参拝者が身を浄めるために手水を使う施設)の南には観音堂と弘法堂が。観音堂は普段は自由に入ることはできないが、今回は特別に見せてもらえることに。こちらを保護・管理しているのは現在ではたった2人なのだそう。中に入ると高さ2.5mの大きな石地蔵と足元には33体もの地蔵観音。
その奥の弘法堂には弘法大師と修験道の祖・役業者神変大菩薩(えんのぎょうじゃしんぺんだいぼさつ)が祀られている。
本堂は一見して、よくある神社にしか見えないが、実はその奥や脇に多くの神仏が祀られていることに驚いた。
続いて、古墳の上に作られた石仏白山社。
社務所内には古観音廃寺跡より出土した鬼瓦が保管されている。こちらは名古屋市が市文化財としている。
そして、隣接する善昌寺へ。
こちらも一見すると普通の寺院だが、敷地内に複数の観音像が祀られている。
桜山駅から出発し、地下鉄ひと駅分ほどの距離を歩いてきた一行。
一旦、休憩。明治30年創業の老舗和菓子店「高砂本家本店」へ。
塩付街道にちなんでつくられたというこの銘菓。塩味を含んだこしのある餅生地にたっぷりの粒あんが入った「塩つぶ大福」。
一服したところで、塩付街道を巡る旅もいよいよ最終地点へ。
ゴールとなったのはマンションの脇に佇む、玉置地蔵。
街道ルートから少し外れた箇所に今回の旅に最終ポイントとなるお地蔵さんが。
「このお地蔵様はもともとは街道沿いにあったものですが、宅地開発に伴い現在の場所へと移転されました。ちなみに近くのスーパーの駐車場になっている高台は実はその昔、稚児宮塚という古墳があった場所なんです。」(荻須)
お地蔵さんだけでなく、古墳や寺社も移転や埋め立てを余儀なくされ、いつの間にか街の景色から消えていく事実。何かしらの文化財に指定され行政によって手厚く保護されているような神社仏閣もある中で、一方では人知れず消え去っていくものもある。
時代の流れとともに、移り変わっていく景色。その景色の中には忘れ去られてしまいそうな小さな御仏たちが存在しているということ。そして、それらを今でも守り続ける人たちがいるということ。改めて考えてみると少し複雑な気持ちになってくる。
「昔はここに◯◯があった」それを言い伝える人がいることだけでも奇跡的なことかもしれない。自分の住むまちをその足で歩き、道の片隅の小さな景色にふと目を止めてみてほしい。あなたの住む街にもいつかはもう見えなくなってしまう景色があるのだから。
最後に、取材レポートに同行した「やっとかめ文化祭」スタッフ・佐藤真さんのコメントを。
もともと生徒の立場で参加していた「大ナゴヤ大学」をきっかけに、「やっとかめ文化祭」のボランティアスタッフをさせてもらうことになって、ちょうど1年くらいになります。
このイベントに携わって一番感じたことは、毎年、このイベントを楽しみにしている方が本当にたくさんいるということ。
自分たちが住んでいるまちのことや、文化振興に興味のある方がこんなにもたくさんいらっしゃることが何よりうれしいことだと思います。
今回のまち歩きに参加してみて感じたことは、まちのさまざまな歴史文化を知ることももちろんそうですが、参加者同士が年齢差も関係なく交流ができることがとても楽しいということに気づきました。
自分の両親くらいの年齢の方がやはり多いですが(笑)。コースの途中に立ち寄った神社などで正しいお賽銭の入れ方や参拝の仕方などを教えてくださる方もいらっしゃいます。みなさん本当にお元気で、いろいろ詳しいのでお話していると大変勉強になりました。
ガイドさんはもちろん、まち歩きの諸先輩方の声は、都市の声のひとつなのかもしれません。
来年もさらに多くの人がこの文化祭にご参加いただき、名古屋というまちを楽しむ人が少しでも増えてくれたら…と思っています。
約1ヶ月間に渡って名古屋のまちじゅうで開催された「やっとかめ文化祭」。都市の詩(うた)に耳を澄まし、目を凝らすこと。自ら街の魅力を見つけ出すことは、あたらしい観光とも言われる。「やっとかめ文化祭」を経て、名古屋のまちの景観が何も変わらなくとも、まちに住む人々の心の中が少しずつ変わってきているような気がする。
「まずは名古屋に住んでいる人たち自体が名古屋の魅力に気づいてほしい。」という思いのもと、この文化祭は4年続いてきた。楽しむためのきっかけはそこらじゅうに転がっているのだ。