FEATURE:TOKONAME CITY
〈やきものの町・常滑〉と聞いて、どんなイメージを持つだろうか。
海と山、知多半島の美しい自然に囲まれた風土と、やきものづくりに最適な環境下で、常滑という町は発展してきた。作られるやきものは実に多様だ。渋く大きな焼き締めの甕、職人技を極めた朱泥の急須、日本が世界に誇る衛生陶器や土管、小判を抱えた招き猫、食卓を彩る手作りの器。多様だが一貫して、常に人々の生活を支える実用品を作ってきたまち、それが常滑だ。
歴史を感じさせる個性的な町並みや、産業遺産の残る風景は時の移ろいとともに変化を遂げてきた。この町の人々はどのように時代を見つめ、どのような未来を描いているのだろう。
2017年4月17日、「常滑の30年後に残したいもの―風景や暮らし」「これから30年以上常滑で活躍する人たちのために」というテーマで制作された『TOKONAME BOOK』が、満を持して出版された。
編集・デザインはこれまでも常滑でのさまざまな企画などを行ってきた、大須のデザイン会社「クーグート」によるもの。
約2年に渡る会議と取材を重ねて出来上がったこの本は、単なる観光ガイドブックとは一線を画す。四季を通して切り取られた美しい風景写真とともに、常滑の物語や、作り手のインタビューが綴られている。世界に向けて発信できるよう、その全てに英文が添えられた。役割を終えたら捨てられるようなパンフレットではなく、ずっと手元に置いておきたい、そんな一冊に仕上がっている。
今回、LIVERARY編集部はこの『TOKONAME BOOK』を片手に、常滑のまちを巡ることに。ガイドしてくれたのは、常滑ブック制作プロジェクトチームの鯉江優次さん(常滑の窯元・山源陶苑とTOKONAME STOREを運営)と常滑市役所の若手・竹内稔将さん。
写真左:竹内稔将さん。写真右:鯉江優次さん。常滑名物・巨大招き猫の前にて。
陶業と陶芸の町、常滑。
その歴史文化を次代へとつなぐために。
FEATURE:TOKONAME CITY
Text : Ami Sakakibara [LIVERARY]
Edit:Takatoshi Takebe [THISIS(NOT)MAGAZINE, LIVERARY]
Photo:Sara Hashimoto [LIVERARY]
古くから様々な焼き物が作られてきた常滑だが、やきものの町としてその名を不動のものにしたのは、高度経済成長期に大量に生産され、近代の日本のインフラを支えた土管だった。
大正13年、当時土管を制作していた、のちのINAX(現LIXIL)の前身となる伊奈製陶が設立。現在においても、衛生陶器やタイルの生産は、国内シェアトップレベルだ。
INAXライブミュージアムは、「窯のある広場・資料館」「世界のタイル博物館」「陶楽工房」の既存の文化施設に「土・どろんこ館」「ものづくり工房」、さらに「建築陶器のはじまり館」が新設され、ものづくりの心を伝える、体験・体感型の企業ミュージアムとなっている。
丸みのあるやわらかい形とあたたかな色の階段を上がり、エントランスゲートを抜けると、巨大な煙突があらわれる。館長の住宮和夫さんにお話を伺った。
まずは、常滑のやきもの産業の歴史を知るべく、
INAXライブミュージアムへ。
「窯のある広場・資料館」の外観。現在は解体が始まっているため建物を見ることはできない。
―大きな煙突ですね!
住宮:ええ。INAXライブミュージアムは、敷地内に6つの施設を有しているんですが、この「窯のある広場・資料館」は、ライブミュージアムのシンボルともいえる20メートルのそびえる煙突と、黒い建物、大正時代の窯を保存しています。かつては実際に使われていたものです。常滑の町並みの象徴である、この煙突と黒い壁と瓦の建物というのも財産なんですよね。
実は、去年の12月から大掛かりな耐震補強工事に入りました。残念ながら、今の瓦は崩れやすいものだそうなので、すべて現代瓦に替えるんです。
INAXライブミュージアム館長・住宮和夫さん。
―そうなんですか!
住宮:当時、窯っていうものは永遠に使い続けるものではなくて、焼き物をつくるための道具なので寿命がきたら作り変えるっていうのが当たり前だったんです。私たちは、登録有形文化財としてお客様に公開する、という保存の目的がありますから、役割が違うんですよね。
この煙突、ほぼ100年前くらい前のものなんですが、過去2回、昭和19年の東南海地震と昭和20年の三河大地震で崩れているんですよ。当時は、知多半島の兵隊さんたちがすぐやってきて直してくれたんです。なぜかというと、当時作っていた土管は軍需品だったんですね。ですから、壊れても立て直しに来てくれた、という歴史があります。
続いては「土・どろんこ館」へ。
住宮:焼き物の原料は土であり、土に水を加えることによって粘土状になって形を成し、そして火を通して完成するということから、ライブミュージアムのコンセプトは「土と水と火との出会い」とご案内しています。この施設では、光るどろだんご教室が開催されています。実際に土に触れ「土って磨けば光るんだよ、土って面白いね」っていうことを体験していただけると思います。『TOKONAME BOOK』にも載っているんですが、全国大会もあるんですよ!
この「土・どろんこ館」というのは2006年にできた施設で、まさに床も壁も土で覆われた建物になっています。昔は土壁が一般的で、この土を操る人を左官職人といいます。土壁や日干し煉瓦、そしてもっと進化していくと、光沢のある壁まで左官職人が作れるようになっています。衛生陶器であるタイルも、元は土からできているんですよ。この施設はトイレも見どころです。どうぞ見てください。
—わ~綺麗!細かいタイルですね~
住宮:こういう一片の長さが5センチ未満の小さいタイルをモザイクタイルと言います。日本で一番最初にタイルを作ったのも、常滑なんです。明治42年に国産第一号のタイルができたと言われています。
―え、そうなんですか?モザイクタイルと言うと、多治見が思い浮かびますが。
住宮:そうなんですよ!もっと誇らしげに言えばいいんですが、多治見に押されちゃってますね(笑)じゃあ、次はタイルを使った作品が飾られている、企画展示室へ行きましょう。今はこの企画展示室では、INAXライブミュージアム10周年特別展として「常滑ガウディ」という展示を開催しています。
スペインを代表する建築家・アントニオ・ガウディの未完の建築「コロニア・グエル教会」に着想し、国内外で活躍する建築家、左官職人、タイル職人の三人が半年近くかけて制作。タイルもINAXライブミュージアム内の施設で制作された。2017年5月30日まで展示。
住宮:最後に一番新しい施設「建築陶器のはじまり館」へ行きましょう!ここに展示してある柱は、世界三大建築家と言われている、フランク・ロイド・ライトが設計した、旧帝国ホテルの柱です。実はこの柱に使われているタイルは、常滑で焼いたものなんです。
住宮:当時、フランク・ロイド・ライトは、黄色いタイルを柱の素材にリクエストしたんです。帝国ホテルのオーナーは、そんな色のタイルは見たことがなかった。なので、全国に調査に出かけ、京都府立図書館で理想的な色のテラコッタを見つけました。それが、知多半島の内海の土で出来ていたんですね。帝国ホテルを建てるのに必要なタイルは約400万枚。帝国ホテルは自前の工場を常滑に作って、そこに当時土管を焼いていた伊奈製陶の創業者、伊奈長三郎が技術顧問として参加した訳です。それが、常滑でタイルや建築陶器が作られるようになったはじまりです。
―帝国ホテルのタイルを制作できたのも、常滑が、土管を焼いていた焼き物の産地だったという背景があったからなんですね。
住宮:そうですね。常滑は日本六古窯にも数えられるほど歴史がありますから。よくやきものというとお皿や茶碗を思い浮かべますが、タイルや土管のような”陶業”もあるんです。ですから、常滑は「陶業と陶芸の町」とも言われています。
―なるほど!「陶業と陶芸との町」。常滑のやきものは、陶業で発展して来たんですね。
竹内:じゃあ、次は陶芸と陶業の歴史をもっと知ることができる、とこなめ陶の森に移動しましょう。
1000年の歴史を、次の世代へ。
とこなめ陶の森資料館
竹内:ここは、とこなめ陶の森資料館です。そもそもこの施設が作られたのは、出土した古陶器や、陶器の生産用具が国指定重要有形民俗文化財に登録された際に、展示するためのスペースとして昭和56年に開館しています。登録された1,655点の内から約300点を選んで、わかりやすく展示してあります。常滑では平安末期から焼き物が作られていたとされていますので、約1000年の歴史です。
―1000年ですか!すごく古い甕が展示してあるんですね。
鯉江:子供の時はなんとも思ってなかってけど、こんな貴重な資料が、触れるくらいの近さで見られるの、すごいよね。
―ここに展示されているような大きな甕は何に使われていたんですか?
竹内:これは「ロ号大甕」といって、大戦時に戦闘機のロケットエンジンの燃料を貯蔵するために作られていました。やきものは耐酸性が高く、燃料の貯蔵に向いていたんですよね。
鯉江:残念だけど焼き物は戦争に加担してるんです。それで、産業が潤ったわけですが…。
—そうなんですね。こういう大きな甕は今でも作られているんですか?
鯉江:作れるけど、今常滑で唯一作れる人は、伝統工芸士の前川賢吾さんひとりになってしまいましたね。
竹内:続いてこちらは、近代の常滑には欠かせない土管の展示です。手作業の仕事ではあるんですが、大量生産をするので木型を使って形が揃うようにしていました。土管というのは、地下の下水管で使われるので、ソケットが合わなかったりすると使い物にならにないんですね。この型を作ったのが、常滑の陶祖とされている鯉江方寿という人物です。この型のおかげで常滑がやきもの産業で栄えたと言えます。
鯉江:それから、常滑がやきもので栄えた要因のうち一つに、廻船っていうのもあるね。舟で日本全国に出荷できたから、北海道や九州でも常滑の土管が出土したりする。海が近かったっていう立地と良質な陶土も大きな要因ですね。
―やきものでできた土管って今でも使われているんですか?
竹内:ほとんどが塩ビ管になってしまいましたが、今でも残っているところはありますよ!
鯉江:後は、やきもの散歩道を歩くと、不良品や余った土管を土台や塀に利用している家がたくさんあるんです。当時の人の生活の知恵で、B級品を用途を変えて活用している。土留めに使われたり、お墓にも土管が使われているんですよ!おもしろいよね。
―すごい数の土管が並んでいる写真がありますね。この当時はどれくらいの窯屋さん(陶業としてやきものを生産している会社)が常滑にはあったんですか?
竹内:常滑の焼き物作りの最盛期、昭和20年ごろには約400本の煙突があったと言われており、窯屋も同じくらいありました。
鯉江:今では106にまで減ってしまったんです。
―106ですか、今でもたくさんの窯屋さんがあるんですね!
鯉江:うん。でもね、この20年間で、250軒から106軒に、すごいスピードで減ってしまったんです。ここから10年でおそらく半分くらいになるんじゃないかな。跡継ぎがなかなかいないんですよね。
竹内:そうですね。そういう現状で、この施設は「文化を伝える」というところと、隣のとこなめ陶の森陶芸研究所でやっている「人材の育成」を役割として、常滑の伝統産業を支える力になれれば…と考えています。じゃあ、この流れでとこなめ陶の森陶芸研究所に行ってみましょう。
とこなめ陶の森陶芸研究所
竹内:このとこなめ陶の森陶芸研究所は、建築家の堀口捨己の設計で、最近は建築物としても価値が高まってきています。奥の研修工房に行ってみましょう。今ちょうど研修生が作業しています。
竹内:とこなめ陶の森陶芸研究所では、年間5人の研修生を迎え入れ、2年間の研修制度が組まれています。全国から40歳未満の研修生を募集して、今年は上海から来ている研修生もいます。ここの工房は、電気窯、ガス窯、薪窯を完備しています。窯の構造を学ぶために、築窯するカリキュラムも組んであります。これは研修生が自分たちで作った窯なんですよ。
―研修生の皆さんは卒業後は職人さんになられるんですか?
竹内:職人、ないしは陶芸作家になられる方が多いですね。
鯉江:でもまだまだ、研修生の方には、僕らみたいな”陶業”をやっている民間の窯元とも繋がりを深めてもらいたくて、僕もここで講師をやってるんですよ。じゃあ、次は山源陶苑に案内しましょう!と思ったけど、その前にちょっと寄り道して、先程とこなめ陶の森資料館で名前の出た、常滑の陶祖・鯉江方寿の陶像を見に行きません?
―はい!見たいです!
鯉江方寿翁陶像。常滑に築いた産業基盤の功績を象徴するかのようにどっしりとしたレンガ造りの礎の上には、まっすぐに前を見つめる鯉江方寿の姿が。陶像自体も市の文化財に指定されている。
竹内:ここは、この陶像のためだけの広場なんですよ。
―そうなんですか!いかに重要な人かがうかがえますね。
竹内:そうですね。鯉江方寿は、自分が開発した土管の製造技術を、惜しみなく周りにも公開して、産業を発展させました。この人なくしては今の常滑はあり得ません。
鯉江:この人がいなかったら、うちの山源陶苑もなかったかもね。さっきも言ったけど、ここ最近で窯屋の数が猛スピードで減っている。今常滑は過渡期とも言えます。ここから陶業を、ひいては常滑を、どういう未来に進めていくか考えていかなきゃいけませんね。
そう言った鯉江さんの目には、どんな未来が見えているのだろう。遥か昔、鯉江方寿から手渡されたバトンを繋ぎ続け、常滑を牽引してきた”陶業”の現場を見に、私たちは山源陶苑へと向かった—。
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