第一回|昭和4年2月。山中散生は、モダニズム誌Cine(シネ)を創刊する。
text by 上原 敏
僕は、好きな画家なりカメラマンが切り取った地点に立って風景を眺めるのが好きだ。別にどうということはないのだが、どうということはない変な緊張感がある。・・・・その地点に立つということに、時空を超えて昔その地点にいた本人とスーッと重なる妙な感覚が生まれる。だからどうしたということにはかわりないが、だからどうしたという妙な一体感が僕には興味深い。
コスプレイヤーたちの聖地となっている鶴舞公園を歩いていて、普選壇を眺める。普選壇は普通選挙法の施行(大正14年)を記念して、名古屋新聞が昭和3年(1928)に名古屋市に寄贈した野外ステージだ。普通選挙法の施行と同時に治安維持法が施行されている。
朝日新聞は読まない、将棋を指す爺たちと地下アイドルのステージに熱狂する観客が座っている場所が大群衆で覆われた写真を見たことがある。昭和4年5月4日(土)名古屋新聞主催で開催された新国劇一座の野外公園写真だ。舞台に激しい殺陣を導入して、チャンバラ映画の誕生に影響を与えた故澤田正二郎率いる新国劇の、澤正追悼公演の情景。この公演の丁度3ヶ月前の午後1時2分に「澤正」こと澤田正二郎は鬼籍に入ったが、3ヵ月後の同時刻に普選壇のステージは開幕する。黒山の人々の脳裏を満蒙の風が吹き荒れる。快刀乱麻。
景色が、記憶のスープの中で現像され、新たな像を結ぶ。奇妙な味と香りで脳がしびれる。
ささやかなフリーマガジンを休刊にしてから3年が経過した。休刊のキッカケは、石川直樹さんのインタビューだった。元々、記録を意識しながら発行を続けてはいたが、消費の時代を生きてきたからか、時代がどう動くのかいちはやく感じとることに価値をおいていた。流行発信の震源にしがみつき、波動とともに飛んでいきたかった。けれど、彼にインタビューしながら、省みなければ、表層をなぞり直すような繰り返しになると思った。「あまりに自分は無知だ。」それまで関わったすべてのことから遠ざかり、本とともに少しばかりの旅に出た。
現在、新しい雑誌のようなものを創刊するために作業をしている。リリースの伏線として使ってはどうかと、ライブラリのみなさんがこのスペースを用意してくれた。感謝している。せっかくの機会なので、誌面に登場する人々を紹介していこうと思う。記念すべき第1回。今回は、山中散生(ちりう)とルルの話をしよう。
山中散生と言われて、「ああ、あの人ね」と反応できる人は、そう多くないはずだ。彼の人生の半分は、戦前の名古屋が舞台。「戦前の名古屋ってどんな場所よ?」まあ、そうなる。
宮崎駿の長編映画引退作品となった『風立ちぬ』は、名古屋が舞台となっている。主人公堀越二郎は、関東大震災後、航空機の設計技師として三菱名古屋航空機製作所に就職する。彼は、木造駅舎の名古屋駅に降り立ち、市電で港方面に向かうのだが、途中、銀行の前で騒乱状態になっている群集に出くわす。その光景で、時代は、世界恐慌、昭和4年(1929)頃だとわかる。同時に、名古屋駅から銀行が並ぶ大通りを通過していく市電は、広小路通りを通過しているのだと気づく。あの広小路と二郎の勤務先があった名古屋港付近のひなびた景色。対照的なこの2つの景色が同居していたのが、戦前の名古屋だった。
赤い服の女にルバシュカの男。下駄に断髪だ。長いスカーツ、絹靴下(シルクストッキング)の脚、脚、脚、フェルトに、エナメルー鈴懸の下に人待ち顔の洋装女は街姫(ストリートガール)?振袖の断髪娘は白い指をひらめかして、抱へた広告紙を配る。
現在準備中の本誌でも引用している、島洋之助編亀山巌装丁の『百萬★名古屋』は、昭和7年(1932)年発行の元祖名古屋ガイド本で、当時の名古屋の気配を感じる描写がいくつもある。洋装の男女が入り乱れて闊歩する栄の交差点を、二郎のような青年が乗った市電が通過していく。何でもない光景の中に、時代を押し開くエネルギーが地下水脈のごとく流れ、通過していく。それは今でも変わらない。
山中散生もまた、何度もこの栄交差点を通過した。山中は、堀越より2歳下の明治38年(1905)名古屋市東区白壁町周辺(推定)生まれの詩人だ。彼は、放送局に勤務しながら、少数の友と共に自分の好奇心を飛躍させ、24歳のときに1冊のリトルマガジンを創刊する。『Ciné (シネ)』と名づけられたその雑誌は、当初、詩と映画批評をテーマとしていたが、次第に先進的な芸術運動だったシュルレアリスムへと接近するようになり、日本におけるシュルレアリスム受容の礎となった雑誌として、文学史、美術史に名を残すこととなった。
山中を「モダンな空気をすって新しい芸術の気配を感じとり表現した才人」と評してしまうのは簡単だけれど、いくら都市化が進んでいるとはいえ、地方都市に住む人間が、どのように好奇心を醸成し、拡張し、状況の先端に触れていったのか、そのプロセスはとても重要だと思う。
元々、山中を誌面の企画のひとつとして登場させたいと思ったのは、Cinéの表紙裏に掲載された広告を見たときだった。そこには、「洋酒と喫茶 ルル」と書かれ、洒落たコピーが添えられていた。
住所は、大須七ツ寺。バーでもなくカフェーでもない「洋酒と喫茶」という響きが、今だからなのだろう、懐かしいというより新鮮に写った。「ルル」という名前もいい。創刊号に掲載されている数少ない広告が、山中の創造の背景となる、この街での暮らしぶりを明らかにしてくれるかもしれない。そういう予感があった。山中は、「広告ハ直接刊行所宛申込マレ度シ、但、クダラヌモノハ絶対ニ採用仕ラズ候条為念。」とも記載していた。ルルは、彼にとって価値ある存在だった。そういう頑固で前のめりな山中の当時の暮らしぶりを明らかにすることは、現在の僕たちにも何らかのメッセージになるのではないか。そう考えた。
様々な文献や証言にあたるうちに、遊民たちを引き寄せたルルという磁場が明らかになっていった。山中をとりまく尖った仲間たちの姿も。亀山巌を始めとする同世代の詩人たちや有形無形の刺激や支援を受けていただろう年長者たち。シネフィル(映画狂)たちがわざわざ脚を運んでいたと言われる中区桑名町(伏見あたり)にあった千歳劇場の支配人で、Ciné創刊の実質的なスポンサーと言われている古田亨の存在など、現在でも彼を髣髴とさせる人物が思い浮かぶ。
ただ、ルルのマダム、吉川時子の物語は想定外だった。彼女の半生は演劇と共にあった。常に理想を追い、実験を重ねた日々だった。晩年の復帰作に名をつらねる関係者の中に吉田謙吉の名前を見つけた。鳥肌が立った。考現学で著名な今和次郎「モデルノロヂオ」の共著者で、関東大震災直後の東京を前衛建築で彩ったバラック装飾社の一員。
彼女が望んだような評価は得られなかったが、その姿、現場での思索や経験、人脈は、山中にも少なからぬ影響を与えたかも知れない。そう思うと、人がその場所で生きている価値というものはその人自身では計り知れないものなのだと感じる。
今、ルルのあった七ツ寺に立つ。ルルが営業していた戦前の面影はない。けれど、そこに集った者たちの描いた理想や妄想は、時代が変わっても、志をもつ者の中に新たな像を結んでいる。あのカフェで、あのライブハウスで、あの畑で。だからどうしたということにはかわりないが、だからどうしたという妙な一体感が僕には興味深い。
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